母が驚くほど綺麗でした

母が亡くなったあと、父が母の遺影を見ながら毎晩しみじみつぶやいていた「ほれぼれするなぁ」という言葉をかみしめつつ、私の個人的な想いを書きました。心の整理をしたいためです。。。

==============================

4月14日、朝。
目が覚めたのと同時に、枕元に置いたスマホの時間を確認しました。7時前でした。
その前の晩は、普段一瞬で寝落ちする私がなかなか寝付けなかったこともあり、寝不足気味。その日の深夜便で日本に一時帰国することになっていたのですが、私は機内ではほとんど眠れないので先が思いやられました。
いつもスマホで時間を確認したあとは、鳴る前のアラームを切るだけなのですが、今思えば、その日は何の気なしにメールのチェックをしたのです。

 

すると、父からメールが2通入っていました。

一瞬息をし忘れました。
それは、母が亡くなったことを知らせるメールでした。

 

母は7年前に体調に異変を感じ、結果、癌を患っていることがわかりました。
標準的な投薬治療後、手術と抗がん剤も行いましたが転移してしまいました。抗がん剤の治療効果がかんばしくなかったので、次は免疫治療を試すことにしましたが、その免疫治療の副作用による肺炎を起こしていました。
はじめは季節柄インフルエンザによる肺炎が疑われたのですが1ヶ月入院しても一向に改善せず、そこで大学病院に転院し、肺炎の治療をすることになりました。ただ肺炎を治療するためには、最終クール直前まで来ていた免疫治療を相殺してしまうという難しい判断の治療となることを意味していたそうです。
大学病院で1ヶ月入院して肺の状態は良くなり退院。再び地元の病院に戻りCTを受けたところ、主治医から告げられたのは、希望的観測で余命4週間。ゴールデンウィークを越せるかどうか。。。
というのが、4月9日のことです。

4月9日に父からは、次の帰国の予定は5月だと言っていたけれど出来ればその前に、4月中に一度顔を見せにおいで。とのことでしたが、看病をしている父のことも心配でしたし、すぐに航空券の手配をし帰国することにしました。ライアンが翌日から出張が入っていたので、その間に私は家を空ける準備や用件を済ませ、4/14の深夜便(日本到着は4/15)で帰国することにしたのです。
ライアンは日常的に出張ばかりという仕事柄、私が家を空けるとなると仕事の調整もあり(雫をペットホテルに預けることは極力避けたいから)、GW直前となると航空券の手配も厳しい状況。一応1週間くらいでシンガポールに戻る予定で帰りの便を手配しましたが、母の体調によっては私はシンガポールに戻れないかもしれず、1ヶ月くらい日本に滞在することになることを想定して予定のやりくりや雫のごはんを準備したり、文字通りバタバタしておりました。
この時の雫ごはんのストック作りは、そのためのものでした。

ちなみに3月の中旬、私は大学病院に入院している母を見舞いましたが、入院生活が長くなってきたため筋力の衰えは感じるものの、顔色も良く、思ったより元気そうで、たった3週間でそこまで悪くなるとは到底思えませんでした。
実際に母に会えばどんな状況かわかるし、次の診察日は4/16でCTの詳しい結果を主治医から直接聞けるとのことなので、私も同席しようと思っておりました。

 

そんな状況のことでした。
父からの訃報を受けたあと、航空券を早い便に変更しようとしましたが変更もままならず、予定通りの便で日本に帰国しました。(ライアンは雫のペットホテルを手配し預けたあと、翌日実家に来てくれました。)
空港に着いて電車を乗り継ぎ、このあと1本で地元へ着くと思った途端、急に母に対面するのを怖く感じました。この現実を受け止めたくなかったのです。会わなければなかったこと出来るのではないか。出来ることならなかったことにしてしまいたい。。。
機内では別のことを思って、なるべく考えないようにして来たので平静を保てたのですが、あともう少しで実家だと思うと辛い現実がどんどん迫って来て、言いようのない切なさに襲われます。

 

実家に着くと、リビングの奥の部屋に母は横たわっていました。
伯父夫婦と父が葬儀社と打合せ中で、私はひとりきりで母と対面することがどうしても出来ず、すると伯母が付き添ってくれましたが、あまりにも母の綺麗な顔を見るのがいたたまれず、すぐにその場を離れてしまいました。

眠っているよう。とはよく聞かれる言葉ですが、今にも目を覚ましそう、というより、今にも動きだしそうなそんな姿だったのです。元々キメの細かい肌をしていた母でしたが、お肌もピカピカ。気にしていたシワはどこに消えたのでしょう。驚くほど綺麗な母が眠っていました。それなのに、母は冷たくなっていたのです。

 

母はおだやかで人懐こい人でした。初めて会う人とでも昔からの友人のように気さくに話す人でしたので、いろんな人からよく連絡先を聞かれていましたっけ。そのおかげか友人も多く、ランチのお誘いもしょっちゅう。葬儀にも母の友人が数多く会葬して下さいました。

 

母方の祖父母は長生きでしたので、私は40代半ばで母を送ることになるとは思ってもみませんでした。
抗がん剤を終えてしばらくしたあと、骨に影が見えると主治医に告げられた時から覚悟がなかったわけではありませんが、それでも奇跡を信じてみたくなるではありませんか。私自身癌を長いこと患っていましたが、今問題なく過ごせているので余計にそう思いたかったのかもしれません。余命宣告を受けても、それを過ぎてなお過ごせた人もいるのですから、私たち家族は奇跡を信じたかったのです。でも実際は違いました。

 

私は大学病院に入院中の母の病室から帰る時(3月)、お母さん、次は5月に帰ってくるからね。それまでに元気になっておくんだよ。いい旅館を奮発するから、温泉に行こうね。元気になるから大丈夫だよ。じゃあ行くからね。そう言って母の柔かい手を握手したのが、最後となりました。
笑顔でじゃあね、と言いました。

 

母は71歳の生涯でした。
残された方はさみしさが募りますが、たくさんの友人に囲まれ、綺麗な姿で最後の別れをした母を、一方で私はとてもうらやましく感じました。いい葬儀だったと思うのです。

私は母の歳まで、あと25年。
母のことがうらやましく思った私は、今なんとなく、自分の余命をあと25年として過ごそうと思いました。あと25年で何が出来るか?と考えると焦るのですが、余命を意識して過ごす方が自分の人生に責任を持てるような気がしています。ただ、気持ちがすぐ切り替わるほど器用ではありませんから、自分のペースで母がいなくなってしまった現実を受け入れて行こうと思います。
誰もがいつかは通る道とはいえ、相当こたえますね。。。

 

母の葬儀後、我が夫ライアンは、こんな経験は(残される方は)あまりにもかわいそうだ。自分は先に死ねない、と言い、私のことを見送ると約束してくれました。よろしく頼みます(笑)。

 


父の連句の先生が「花の旅」と詠んで下さいました

 

今日も最後までお付き合い頂きありがとうございます。

ランキングに参加しています。読んだよ!の合図にどちらかポチっと押して頂けると励みになります。応援ありがとうございます。
にほんブログ村 犬ブログ 犬 海外生活へ にほんブログ村 犬ブログ 犬のいる暮らしへ


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください