雫のことはただそこにいるだけで、なんて尊いんだ!居てくれてありがとう!と思えるのに、こと、自分自身に対してはなかなかそんな風に思えない。
ワンコに生産性やら何やら決して求めないのに、自分にはいろいろと求め過ぎる。あーするべきこーするべき。そうして、あれが出来ない出来ていない。出来ない自分はダメなんだ。
世界中の誰よりも、自分が自分にダメ出しをしている。自分自身に投げかける声は誰にも聞こえないのをいいことに、これでもかってくらいダメ出しをしている。無意識レベルで、私は幸せになる価値がないと思っている。罪悪感てそういうこと。もちろん顕在意識ではそんなこと思ってない。だから、より厄介なんだ。
あーー生きづらいったらありゃしない。
雫はそこにこうしているだけで、十分ありがたいのです
少しでも生きやすくなるように、こういった本を読みながら、悩んで苦しんでもがいている。
こんなに生きにくいのは、HSP(自己診断)で敏感過ぎるからだと思っていた。それにしてもこの罪悪感はなんだろう? HSP以外の理由は全く思い当たらない。…そんな時に狙ったかのようにネット上でこの本がたまたま目に入る。一度はスルーしたが、気になり購入。
既に3回読んだ。涙無しでは読めない。 pic.twitter.com/7NN9DOkG06— NoO@読書サーフィン (@nadiaemerald717) October 30, 2019
不惑の四〇をとうに超えているのに、いまだに自分の生き方について悩んでいる。私は病気治療中の14年間は思考停止していて、治療が終了してからようやくいろんなことに目が行くようになった。だったら病気以前は考えていたのかと言えば、考えているようで考えていなかった。違うな。考えるというよりも自分自身が何をどう感じているか、とても無頓着だったように思う。今になって思い返すと、団塊ジュニア世代にはそういった時代の流れがあったのかもしれないが、とはいえ、暗に正解を求めているようなところがあったのだ。
すると、癌になっていた。
31歳で癌の宣告。45歳で多重癌の宣告。
なんとこの歳で、転移ではなく2つ目の原発癌を患うことになった。
なんじゃそりゃ。
延々と自分にダメ出ししていた成れの果てだ。
ごはんを待っている時の期待に満ちたお顔は極上
最も一般的で教科書的な標準治療なら、今頃体の中のものをざっくり失っていたはずだが、幸いにも奇跡のような偶然が重なって最小限の手術で退院することが出来た。それが2018年4月のこと。そして今でも経過観察で通院している。
通院中のある時、主治医からこんな話があった。
「今度の国際学会で、あなたのデータ(MRIやCTの画像や組織診の結果など)を使わせてもらっていいか?」
「某国では、〇〇癌(私の最初のもの)から△△癌(2番目のもの)を併発することはないと報告されているが、自分の患者さんのうち□%が併発している。これは決して少ない数ではない。国際学会で発表して注意喚起を促す必要がある。その発表の中の資料として使いたい」
もちろん、快諾した。
その時はただ最近の個人情報うんぬんのための、確認の話だと思ったのだ。ところがふと冷静になると、これはものすごいことなんじゃないかと鳥肌が立った。
つまりはこうだ。
私はただ治療を長年してきただけ。自分のために通院していただけ。
そうしたら、回り回って、世界のどこかの誰かに役立つようなデータを提供出来た。
実際には主治医が発表するのであって、そのために私が何かすることはもちろんないのだけれど、そのデータは私や私と同じように治療をしてきた人々の苦労の成果だ。データそのものは、努力によって生産できるような類の代物ではないからだ。
私は私のことに専念していたら、回り回って、それが誰かの役に立つ。
すばらしいことじゃないか!
私はただそこにいるだけで、誰かの命を救うんだって思ってもいいのではないだろうか。
だったら私は、自分にダメ出しをしなくてもいいのではないだろうか。
そこにいる許可を、自分で自分に出してもいいのではないだろうか。
お出掛け大好き
みんな大概こんなものなんだろうとずっと思ってきたわけで、自分の生きづらさに気付いたのが40歳を過ぎてからだから、今更ながら生きやすく生きるためにアレコレもがいている。いつもの調子で罪悪感が頭をもたげた時に、なにかと忘れがちな自分のためにここに残しておくことにした。
いいんだって、もうそんなに自分を責めなくても。忘れるな。
うちのコになってくれてありがとう
☆ツイッターにもあげた参考書はこちら。
そもそもこのような内容の本を読んだことを、誰かに言うのは非常に恥ずかしいと思っている。自分の素を晒すのも小っ恥ずかしいし、ましてや誰にも話さないような、むしろ人から隠したいような心の問題を自ら書くなんてもってのほか。
ツイッターに読書専用のアカウントを作っておきながら、頑なにこういう類の本は上げてこなかった。(HSPのことを上げたのが私にとってはギリギリ。)私の中では罪悪感とともに羞恥心も異常に大きいのだ。
ところが、どうやら人って他人のことなんてそんなに気にならないものなんでしょう? 私にとっては赤裸々レベルでも、ある人にとってはこれのどこがそんなに恥ずかしいことなの?てなものなんでしょう?
その辺りの感じ方は人それぞれ。だから、どこまでイケるかちょっとした実験みたいなものだ。
私の生きにくさはHSP(自己診断)だからだと思っていたのだが、そのうち、どうも他にも何かあるんじゃないかと思えてきた。そんな時に、常に湧いてずっと私につきまとう罪悪感こそ諸悪の根源かもしれないと直感したのだ。敏感だからこそ子ども時分からいろいろ見えてしまうし気付いてしまう。そこから罪悪感が生まれる負のループだったのかもしれない。いよいよ始末に悪い。
本の中の例では、いわゆる毒親を持った人が罪悪感に苦しむケースが出てくるが、自分で言うのもなんだが、私の両親は良い人達だ。大切に私のことを育ててくれたと心からそう思う。だから今までインナーチャイルドを癒すということと自分は無縁だと考えてきた。が、そうではなさそうだ。子ども心が傷つくことは親がどうこうだけではないのだなぁとこの本を読んで振り返ることができた。忘れていたような些細なことを本を読みながら次々と思い出したのだ。いくつになっても、それこそ高齢者になっても、そしてすっかり忘れているような些細なことでも、心の傷にはなり得るようだ。私の周りをザッと見渡しても例えに事欠かない。
そして結局は自分で自分を許す必要があるようだ。我が夫は、私自身よりも私の長所に気付いてくれる稀有な人だが、夫にどれだけ言ってもらったところで、自分で自分を許さない限り罪悪感からは逃れられないからだ。
がんばれ、私。
その意味で、主治医からのデータ使用についての話は、自分がそこに存在していいのだという許可を自分で自分に与えられた、私にとっては大きな出来事。そもそも許可なんて必要ない。そんなの頭では十分理解している。それでも心の深いところでは許可が欲しいと思うくらいトチ狂っている。それが罪悪感というものだ。
自分にとって大事なことなので、忘れないために今日の内容を書いた。
付き合わせてごめんなさい。あ、こういう話が嫌ならこんなところまで付き合ってないか。
今日も最後までお付き合い頂きありがとうございます。
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